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3.1956年の「再処理」構想(更新版)

更新日:2021年8月30日


 この核燃サイクルと言うのはいつ頃進められたのかというと、1956年9月6日にもう決まってしまいました。今から65年ぐらい前ですね。この時に「燃料の再処理」という言葉がもう出ています。それから増殖炉、または動力炉ということで、この辺で将来、高速増殖炉をやるんですよという話です。青森県に持ち込まれたのはいつかというと、鎌田慧さんに言わせれば、13年後にはもう青森県に「むつ小川原大規模工業開発調査報告書」というのが出ていて、その中には「濃縮・成型加工・再処理」という形でもう出てますよ、ということです。でもこの時はまだ民間再処理の道はなかったので、この時点でやろうという話にはならなかったと思いますが、計画としてはそういう大きな計画があったのです。

全国の離島が候補地になった挙句

 各地の原子力開発計画は当然ありまして、69年の「新全総」で、むつ小川原地域は超大型の工業基地候補となりました。それから徳之島に1975年3月に再処理工場の立地計画がありました。今、北海道が高レベル放射性廃棄物の最終処分地の計画が話題になっていますが、1975年には奥尻島で再処理工場の建設プランもありました。その後、沖縄県の西表島に再処理工場の建設計画が1980年3月の議会で問題となったり、1982年9月に平戸島に計画が出たりしたのですが、どうも決定には至らなかった。この当時は、東と西のどちらかが再処理工場の立地計画を実現させるかを競っていたような所もあったようだ。


 その後77年にむつ小川原開発は、第二次基本計画に縮小されていくわけですが、この時点で、奥尻町議会が1983年の7月に調査委員会設置条例を設定します。ところが動きがないので奥尻町が83年12月に東京の電事連に行って、いやあ全然動きがないんですけどどうなってる?と聞いたときに、電事連の方から北海道知事が反対しているからお宅には行かないだろうと言うわけです。もう一つの自治体で首長が賛成しつつあるということで、そちらに行くんじゃないかという言葉が、この12月の現地調査で言われました。1984年1月に地元の新聞、東奥日報に「核燃サイクル三施設が来るのかもしれない」というニュースが出て、4月に立地要請がされたという経過です。

 実はこの以前に、北村知事とか山内副知事がむつ小川原開発に失敗して土地が余っているのでどうにかならないかと泣きついて、電気事業連合会側から再処理工場いかがでしょうという話があったが、再処理は高レベル放射性廃棄物が出るから容認できないと断った。どの後、北村知事からウラン濃縮があるんだったらいいよということで、3点セットに83年以前にも合意をしていたという裏話があります(これを裏付けるのが、元北村知事、元山内副知事が書き残した本で、現職の時代にはその話は一切していませんでした)。

 ところが青森県民のほとんどはそういう情報は後からしか教えてもらっていませんので、1984年4月に電事連から青森県の下北郡に核燃施設の立地要請があり、もう1年後には受け入れを決めてしまったわけです。この間反対運動はあるのですが(労働組合等は、印鑑の必要な署名活動を展開した)、もうほとんどこの状態で決まってしまいました。

 もし奥尻に先に決まってて再処理工場で来ていれば、その後大規模な津波がありましたから、今頃この辺は再処理工場の放射能で、「東北より北へは行かれませんね、強い放射能が残ってます」という風になっていたかもしれないね、というのが、私の感じ方です。

 但し、核燃受け入れまで2年以上の時間が掛かっていたら、1986年4月26日のチェルノブイリ原発事故が先に起きて、青森県としては核燃サイクル施設の受け入れの話しを断っていた可能性が高いと思う。



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